2016年7月6日水曜日

リヨン~アンジェ/修道院のブリジット

 性懲りもなく学生時代の記憶の旅を続ける新行内です。もう少しだけお付き合いくださいませ。

 パリ短期留学から帰った私は、学習塾のバイトを辞め大学と日仏学院の授業に集中するようになりました。3年生に進級するタイミングで、2つ下の妹が早稲田に入学したため、松原団地と高田馬場の中間点(?だいぶ高田馬場よりのような?)にある西日暮里のアパートに引っ越し、妹との共同生活が始まりました。私にとっては初めての東京暮らし。各種書類の住所欄に「東京都」と書けるのが嬉しかったのを覚えています。
 
 大学では、尊敬するフランス人教授のゼミにも入ることができ、毎日が充実していました。そして無事交換留学生試験をパスすることができ、4年生の夏から1年間の留学に旅立ちました。

 留学先のフランス西部の中核都市、アンジェに入る前に、大学から支給された留学準備金を使ってリヨンカトリック大学の夏期講座を1か月間受講しました。フランス第2の都市、リヨンに滞在してみたかったのです。大学は市の中心部にあったのですが、学生寮は郊外にあり、夜には1人ではで歩けない雰囲気のところでした。実際昼間に1人で歩いていて、トラックの窓から空き缶を投げつけられたこともありました(怖)。なので夜出歩くということはほとんどせず、その分寮の仲間同士でとても仲良くなり、寮のキッチンで料理をしてみんなで食べたり、音楽をかけて即席クラブを作って踊りまくったり、週末にみんなでスイスを旅行したりと楽しかった1か月は瞬く間に過ぎてしまいました。

 そしていよいよアンジェ入りします。私が通った西部カトリック大学 Université Catholique de l'Ouest CIDEF http://www.uco.fr/はフランスにはわずか4校しかない私立大学です(他はすべて公立)。治安のよい街であること、この地方のフランス語のアクセントが美しいという定評があることからか、日本をはじめ、アメリカ、カナダ、韓国、台湾、メキシコ、イタリアなど、さまざまな国からの留学生が在籍していました。授業はとても厳しく、課題や論文、資格試験の勉強など、寮に帰ってからもかなり勉強しないとついていけませんでした。
 
 住まいは大学から斡旋された女子寮に入りました。そこは修道院が経営する寮で、主にスペイン出身の高齢のシスターたちとアンジェにある何校かの大学に通う学生が50人くらい滞在していました。
 早朝から階下のチャペルでお祈りの時間があり、夜は夕食後すぐにシスターたちは寝室に戻っていきました。現代の生活の中で彼女たちは浮世離れした存在で、いつも静かに年頃の女学生たちを見守っていました。もちろん男子禁制。庭師の男性ぐらいしか門の中に入ることはできず、金曜の夜などは、門の前に男の子たちが、ガールフレンドが出てくるのを待って並んでいました。そんな清廉な雰囲気の寮内に1台だけあったテレビで、シスターたちが寝静まった後、お下劣で最高に面白い映画『Les Bronzés』http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=51781をみんなで観てゲラゲラ笑い、トイレに起きてきたシスターに気づき、慌ててチャンネルを変えたりしていました。
 朝食には、毎朝近所のパン屋さんが配達してくれる焼きたてのバゲットが籠にこんもりと盛られており、バターと2種類のジャム、コーヒーとミルクがセルフサービスで食べられました。フランス人の友人たちは、毎日タルティーヌじゃ飽きると言って、シリアルや何かを食べたりしていましたが、私は1年間、ほぼこのパンをタルティーヌにしてカフェオレと一緒に食べ続けました。パンはもちろんバターやジャムがおいしくて、飽きることなどなかったのです。寮での食事は夕飯のことより、この朝食のことの方が印象深いです。
 
 当時はフランスではやっと携帯電話が普及し始めた時代、誰かから電話がかかってくると「Noriko, demandée au téléphone! ノリコ、電話です!!」という寮内放送がかかり、寮に2台しかない電話に駆け込み受話器を取るのでした。自分に電話がかかってくるととても嬉しい。他の子が呼ばれてると「あっ、あいつまたかかってきてる!いいな~。」なんていう具合に、それまで集団生活に慣れていなかった私は、その楽しさにどっぷりとはまりました。今でもできることならば、どこかの寮に入って、少し不便な暮らしがしたいと思ってしまうほどです。
 
 そしてなぜか寮母さんにあいさつをすると、「Bonjour Brigitte! おはようブリジット!」と返されていました。ノリコとブリジット、どう考えても似ていないと思うのですが、日本人の慣れない名前を覚えるのが面倒だったのか、以前に私に似たブリジットという名のアジア系フランス人の学生がいたのか。理由なんてどうでもいい!私は小躍りしました!!「私がブリジットだって!!!」そうです、自分が憧れのフランス人ネームをつけられたのですから!(アホ)
 ちなみにこのブログのタイトルNorique(ノリック)は、アンジェ時代の友人がつけてくれたニックネームです。

 旅行にも多国籍グループで、いろいろ行きました。バルセロナやロンドン、ベルリンやブリュッセルなど。フランスの学校はこまめに1~2週間単位の休暇があり、電車代なども25歳以下には大幅なディスカウントがあったりして、お金をかけずともいろいろな都市を旅することが出来ました。宿泊はテントか車中泊、ユースホステルなどを使いました。今この年齢になると、さすがにテント泊はきついかもしれませんが、当時は若さゆえ多少の困難が旅を楽しくするスパイスになっていた気がします。
 また、ミレニアムをパリで過ごそうと、友人たちと、私が以前お世話になったパリのマダムの家に滞在しました。夕飯は日本食レストランで年越しそばを食べようと言っていたのに、アペロでピスタチオを食べすぎ、お腹を壊してしまいひとりアパルトマンで留守番をしたのを鮮明に覚えています。その後正露丸の力を借りてシャンゼリゼに出て年越しをしました。酔っぱらいの投げたビール瓶が当たりそうになったりしましたが、よき思い出です。(的がデカいからか、ものをよく投げつけられてますね)※後日友人より、私はお腹を壊していたのではなく、ガスが溜まっていて腹痛を起こしていたとの指摘がありましたので訂正します。

 留学も後半戦に入ると、大学の他でも、アンジェっ子の友人も出来、放課後や週末はその家族と過ごすことが増えました。何週間にも及ぶフランスの休暇も、その友人家族の別荘で過ごしました。ひとりっ子だった彼の両親からはとてもかわいがってもらい、いろいろなところに連れて行ってもらい、親戚の集まりにまで呼んでいただき、お母さん得意の料理をふるまってもらいました。彼らと過ごした時間が、フランス語や、フランス文化の習得にどれだけプラスになったことでしょう。感謝しても感謝しきれません。(翌年彼と両親は来日し、我が実家に滞在したこともありました。今は亡き祖父母に彼らを紹介できたことはとても良い思い出です)。

 とにかくこの1年間の密度の濃かったこと!思い出をすべて書こうと思ったら何ページあっても足りません!日本人の友人、世界中の同年代の若者と勉学に励み、遊び、旅をし、語り合えたこの1年は、いまだに人生の中の最も充実した日々だったと言えます。1年の短い期間だったからこその無責任な感想かもしれません、それでも私にとっては、いつまでもみずみずしく保っておき、辛く苦しいときには取り出して眺めたくなる記憶の集合体なのです。

 こんな頭の中がお花畑状態で帰国した私を待っていたのは、超超氷河期といわれた2000年の就職活動だったのでした。

 続きはいつか書きたいと思います。


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