2016年7月3日日曜日

松原団地の青春

 最近ニュースで東武伊勢崎線松原団地駅の名前が「獨協大学前駅」に変わると聞き、複雑な思いを抱いた新行内です。賛否両論あるみたいですね。

 そんな獨協大学に1996年に入学しました。もう20年も前のことなのですね。
 当時私の在籍したフランス語学科は、フランス語を高校までに既に習ってきた学生で構成される「既習者組」1クラスと、大学からフランス語を始める「未習者組」3クラスがありました。驚くほどに女子ばかりで、男子学生はクラスに3~4人くらいだったと思います。共学の中で育った私はまずこの女子ばかりという環境に少し恐れを抱きました。しかも周りの女子はみんな大人に見え、それぞれ入学後すぐにテニスサークルやオールラウンドサークル(当時流行っていた)などに入り、キャンパスライフを謳歌していました。
 私と言えば、入学早々決まった学習塾の英語講師のアルバイト開始2日めにして、帰りのバス停で痴漢に遭遇し、すぐに交番に駆け込んで無事だったのですが、その事件がトラウマになり、あんなに大嫌いだった実家に帰りたくなるというまさかのホームシックに陥りました。とにかく1人で暮らすことが怖くなってしまいました。そんな私を救ってくれたのは、当時住んでいた、大学のすぐ裏の獨協大生専用のアパートで隣室だった同級生でした。彼女は三重県出身のドイツ語学科生で、同級生でしたが浪人を経験しており、1年ひとり暮らしが早かった分、私のことをいろいろと心配して声をかけてくれました。彼女の部屋で食べた彼女の帰省後に必ず作ってくれる伊勢うどんの味がまだ忘れられません。
 こうして、ホームシックに罹り、サークルの新歓コンパのノリにどうしてもついていけない私は、なんのサークルにも所属しないという、一匹狼の道を選んだのです。もう、授業とアルバイトのみの生活。飲み会もない、サークル合宿もない、ただただ学校とアパート、学習塾の往復。それを淡々とこなしていました。肝心のフランス語も、やたら動詞の活用や発音記号ばかりの教科書に早々にギブアップ感を覚え、「あ~なんで英語学科にしなかったんだろう・・・」と後悔の日々。4年後にフランス語が話せるようになっているイメージもなく、1年生の頃の成績は中の下あたり。唯一学校で楽しかったことはオーディオルームで、フランス映画のビデオを観ること。フランスの新旧の映画を思う存分鑑賞できました。そして、松原団地は東武伊勢崎線。ぐいぐい南下すると日比谷線に直通しており、休日は六本木の「シネヴィヴァン」(閉館)や日比谷の「シャンテシネ」(現TOHOシネマズ・シャンテ)に行き、フランス映画の新作を見に行きました。そういうことに付き合ってくれる友人もいなかったのでひとりきりで。日比谷に行った時にはプランタン銀座の地下にある「ビゴの店」でバゲットを買い、隣にあったチーズ売り場で今までプロセスチーズかクリームチーズしか食べたことのなかった私は、フランスのいろいろなチーズを少しずつ買い、家で簡単なサラダを作って、おフランスな食卓を演出し、ひとりで食べては悦に入っていました(隣人は恥ずかしくて呼べなかった)。アンジェリーナのモンブランを初めて食べたときの感動もまだ覚えています。イエナ書店(閉店)で自分でも読めそうな子供むけのフランス語書籍を買ったりするのも喜びでした。フランスの本は、匂いが日本の本とは違うのです。当時はくんくんそれを嗅いでは遠いフランスに思いを馳せていました。
 松原団地から都心は遠かったけれど、千葉にいた頃から比べればとても近い。何しろ乗り換えなしで六本木です。当時は夢のようでした。ある教授が「獨協大学は教授陣やカリキュラムどれをとっても素晴らしい大学だけど唯一立地条件が悪すぎる。もし都市部にあったら、君たちなんか入学できないよ」とおっしゃっていました。でも私にとってはそこは夢の「都会」だったのでした。 続きます。

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