2016年7月5日火曜日

プラスチックな仲間たち/パリへ!

 前回、前々回と、私の学生時代について書いた記事に、「早く続きが読みたい」と言ってくださる方たちがいたりして、調子に乗って本日も学生時代に思いを巡らせる新行内です。

 さて、サークルなし、恋人なし、バイトと学校の毎日を送っていた私ですが、大学生活も1年を過ぎた頃には「私はこのまま退屈な日々を送っていてよいのか?」と自問し始めます。これは憧れていた学生生活ではない、寂しすぎるぞ!という心の声が聞こえてきたのです。授業で会えばおしゃべりしたり、昼食を一緒に食べたりする友人はいましたが、もっと親密に、楽しく過ごせる仲間が欲しい、そう、仲間が欲しいんだ!ということになり、春休みに同じ高校出身の友人と2人で、サークルを作ろうと計画しました。でも、何のサークルを?私たちは、チラシをコピー機で印刷し、新入生に配りました。そのチラシには『Plastic Machines』と書き、≪映画や音楽が好きな人募集≫的な文句、そして連絡先のみを載せました。きっと誰も来ないさ、だって自分たちでも何のサークルかわからないのだし。と思っていましたが、なんと10人ほどがコンタクトを取ってきてくれたのです。同郷の他大学の男の子をはじめ、何人かの男子とお洒落で個性的な女子たちが、仲間になってくれたのです。これは予想外でした!とは言え、決まった活動は特になく、たまにご飯を食べに行ったり、学食でお昼を一緒に過ごしたり、誰かの家でビデオを観たり、サークルノートを回したりそんな感じでした。今思えば、部活やサークルに所属するよりも、ひとりでいるほうが好きなタイプの人が多かった気がします。
 
 その中の1人に、今フランスを中心に活躍するミュージシャンKumisoloちゃんがいたのです!!
http://kumisolo.fr/
彼女は60年代の古着を素敵に着こなして登校し、太くアイラインを入れてヌーヴェル・ヴァーグの女優のような雰囲気を醸し出していました。やはり当時から異彩を放ち、素敵だったのです!(Kumisoloについては別の回で詳しくご紹介します!)

 他のメンバーも、独特の雰囲気を持った、面白い人たちでした。今でもSNSで繋がっている人がいますが素敵に歳を重ねているようです。

 そんなこんなで完全に調子をこいた私は、1年間地味な生活を送っていたために貯まりまくった貯金をはたいて、2年生の夏休みに1か月間のパリ留学に出ました。大学で斡旋してくれる留学プログラムもあったのですが、変に背伸びをしていた私は、初めての海外渡航であるにも関わらず、自分ひとりで学校探しから航空券の手配までをし、出発の日を迎えました。トランクにものを詰め込みすぎて超過料金を取られそうになり、成田のチェックインカウンターで、見送りの両親とトランクを開けて重い荷物を取り出した記憶があります。本当はとても不安でしたが、これが自分で選択する人生の始まりなんだ!と妙に意気込んで行ったのを覚えています。

 パリの空港には語学学校のスタッフが迎えに来てくれていたのですが、早速助手席だと思って左ハンドルの運転席に乗り込もうとして、「き、君が運転するのか・・・?」と驚かれました。

 ホームステイ先は8区の高級アパルトマンの1室。有名な建築家の元妻で、官能小説を書いているマダムと、私と同世代の娘と息子の家庭でした。私の他にもドイツ人とレバノン人、オランダ人の留学生が滞在していました。みんなとフランス語で話そうと努力しますが、大学1年間の学習で獲得した語彙は少なすぎ、他の留学生たちも初心者だったので、結局英語で会話していました。1か月の滞在で、英語がかなり上達しました。肝心のフランス語は、授業がとても厳しく、苦労しましたが、ラテン系の学生たちが日に日にペラペラになっていくのを横目に、私の上達は亀の歩みでした。でも、何かを掴み始めた気がしました。
通っていた語学学校 ELFE   http://www.souffle.asso.fr/fr/elfe.html

 午後に授業が終わって、パリの街を歩くのがとても楽しみで、毎日メトロに乗っていろいろなところに行きました。映画の中で見ていた場所に自分が立っている、そのことだけで涙が出そうになっていました。実際に泣いていた気もします。傍から見たらエキセントリックなアジア系中学生。パリの中学生によく声をかけられました。

 パリでは見るもの食べるもの、すべてが新鮮で刺激的でした。そのどれをも目に焼き付け、パリの美しさ、汚さ、厳しさ、寛容さを体感する毎日でした。

 帰国が近づいたある日、アパルトマンでマダムと2人きりになったとき、「強く、賢い女性になるのよ、自分の道を自分で拓ける人間になりなさい」と目に涙を浮かべて言われたのを覚えています。私は彼女の目にどう映っていたのでしょう。 とても頼りなげでまっさらな、自分のない少女に見えていてそう諭さざるを得なかったのかもしれません。

 あっと言う間に1か月は過ぎ、帰国した二十歳の私は、今までの自分ではなくなったような気がしていました。そして習得をあきらめていたフランス語を何とか自分のものにしようと、勉強するようになりました。考えてみれば受験勉強すらきちんとやらなかった私が、初めて時間を忘れて机に向かうようになりました。パリで英語で生活した自分への嫌悪感と、1か月間のフランス語特訓で芽生えた「もしかしたら話せるようになるのかも」という僅かな希望がそうさせたのだと思います。
 次はもっと長く留学したい。交換留学生の試験に受かりたい。大学だけでなく飯田橋の東京日仏学院(現アンスティチュ・フランセ東京)http://www.institutfrancais.jp/tokyo/に通いだしたのもこの頃です。

続きます。


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