前回、前々回と、私の学生時代について書いた記事に、「早く続きが読みたい」と言ってくださる方たちがいたりして、調子に乗って本日も学生時代に思いを巡らせる新行内です。
さて、サークルなし、恋人なし、バイトと学校の毎日を送っていた私ですが、大学生活も1年を過ぎた頃には「私はこのまま退屈な日々を送っていてよいのか?」と自問し始めます。これは憧れていた学生生活ではない、寂しすぎるぞ!という心の声が聞こえてきたのです。授業で会えばおしゃべりしたり、昼食を一緒に食べたりする友人はいましたが、もっと親密に、楽しく過ごせる仲間が欲しい、そう、仲間が欲しいんだ!ということになり、春休みに同じ高校出身の友人と2人で、サークルを作ろうと計画しました。でも、何のサークルを?私たちは、チラシをコピー機で印刷し、新入生に配りました。そのチラシには『Plastic Machines』と書き、≪映画や音楽が好きな人募集≫的な文句、そして連絡先のみを載せました。きっと誰も来ないさ、だって自分たちでも何のサークルかわからないのだし。と思っていましたが、なんと10人ほどがコンタクトを取ってきてくれたのです。同郷の他大学の男の子をはじめ、何人かの男子とお洒落で個性的な女子たちが、仲間になってくれたのです。これは予想外でした!とは言え、決まった活動は特になく、たまにご飯を食べに行ったり、学食でお昼を一緒に過ごしたり、誰かの家でビデオを観たり、サークルノートを回したりそんな感じでした。今思えば、部活やサークルに所属するよりも、ひとりでいるほうが好きなタイプの人が多かった気がします。
その中の1人に、今フランスを中心に活躍するミュージシャンKumisoloちゃんがいたのです!!
http://kumisolo.fr/
彼女は60年代の古着を素敵に着こなして登校し、太くアイラインを入れてヌーヴェル・ヴァーグの女優のような雰囲気を醸し出していました。やはり当時から異彩を放ち、素敵だったのです!(Kumisoloについては別の回で詳しくご紹介します!)
他のメンバーも、独特の雰囲気を持った、面白い人たちでした。今でもSNSで繋がっている人がいますが素敵に歳を重ねているようです。
そんなこんなで完全に調子をこいた私は、1年間地味な生活を送っていたために貯まりまくった貯金をはたいて、2年生の夏休みに1か月間のパリ留学に出ました。大学で斡旋してくれる留学プログラムもあったのですが、変に背伸びをしていた私は、初めての海外渡航であるにも関わらず、自分ひとりで学校探しから航空券の手配までをし、出発の日を迎えました。トランクにものを詰め込みすぎて超過料金を取られそうになり、成田のチェックインカウンターで、見送りの両親とトランクを開けて重い荷物を取り出した記憶があります。本当はとても不安でしたが、これが自分で選択する人生の始まりなんだ!と妙に意気込んで行ったのを覚えています。
パリの空港には語学学校のスタッフが迎えに来てくれていたのですが、早速助手席だと思って左ハンドルの運転席に乗り込もうとして、「き、君が運転するのか・・・?」と驚かれました。
ホームステイ先は8区の高級アパルトマンの1室。有名な建築家の元妻で、官能小説を書いているマダムと、私と同世代の娘と息子の家庭でした。私の他にもドイツ人とレバノン人、オランダ人の留学生が滞在していました。みんなとフランス語で話そうと努力しますが、大学1年間の学習で獲得した語彙は少なすぎ、他の留学生たちも初心者だったので、結局英語で会話していました。1か月の滞在で、英語がかなり上達しました。肝心のフランス語は、授業がとても厳しく、苦労しましたが、ラテン系の学生たちが日に日にペラペラになっていくのを横目に、私の上達は亀の歩みでした。でも、何かを掴み始めた気がしました。
通っていた語学学校 ELFE http://www.souffle.asso.fr/fr/elfe.html
午後に授業が終わって、パリの街を歩くのがとても楽しみで、毎日メトロに乗っていろいろなところに行きました。映画の中で見ていた場所に自分が立っている、そのことだけで涙が出そうになっていました。実際に泣いていた気もします。傍から見たらエキセントリックなアジア系中学生。パリの中学生によく声をかけられました。
パリでは見るもの食べるもの、すべてが新鮮で刺激的でした。そのどれをも目に焼き付け、パリの美しさ、汚さ、厳しさ、寛容さを体感する毎日でした。
帰国が近づいたある日、アパルトマンでマダムと2人きりになったとき、「強く、賢い女性になるのよ、自分の道を自分で拓ける人間になりなさい」と目に涙を浮かべて言われたのを覚えています。私は彼女の目にどう映っていたのでしょう。 とても頼りなげでまっさらな、自分のない少女に見えていてそう諭さざるを得なかったのかもしれません。
あっと言う間に1か月は過ぎ、帰国した二十歳の私は、今までの自分ではなくなったような気がしていました。そして習得をあきらめていたフランス語を何とか自分のものにしようと、勉強するようになりました。考えてみれば受験勉強すらきちんとやらなかった私が、初めて時間を忘れて机に向かうようになりました。パリで英語で生活した自分への嫌悪感と、1か月間のフランス語特訓で芽生えた「もしかしたら話せるようになるのかも」という僅かな希望がそうさせたのだと思います。
次はもっと長く留学したい。交換留学生の試験に受かりたい。大学だけでなく飯田橋の東京日仏学院(現アンスティチュ・フランセ東京)http://www.institutfrancais.jp/tokyo/に通いだしたのもこの頃です。
続きます。
2016年7月5日火曜日
2016年7月3日日曜日
松原団地の青春
最近ニュースで東武伊勢崎線松原団地駅の名前が「獨協大学前駅」に変わると聞き、複雑な思いを抱いた新行内です。賛否両論あるみたいですね。
そんな獨協大学に1996年に入学しました。もう20年も前のことなのですね。
当時私の在籍したフランス語学科は、フランス語を高校までに既に習ってきた学生で構成される「既習者組」1クラスと、大学からフランス語を始める「未習者組」3クラスがありました。驚くほどに女子ばかりで、男子学生はクラスに3~4人くらいだったと思います。共学の中で育った私はまずこの女子ばかりという環境に少し恐れを抱きました。しかも周りの女子はみんな大人に見え、それぞれ入学後すぐにテニスサークルやオールラウンドサークル(当時流行っていた)などに入り、キャンパスライフを謳歌していました。
私と言えば、入学早々決まった学習塾の英語講師のアルバイト開始2日めにして、帰りのバス停で痴漢に遭遇し、すぐに交番に駆け込んで無事だったのですが、その事件がトラウマになり、あんなに大嫌いだった実家に帰りたくなるというまさかのホームシックに陥りました。とにかく1人で暮らすことが怖くなってしまいました。そんな私を救ってくれたのは、当時住んでいた、大学のすぐ裏の獨協大生専用のアパートで隣室だった同級生でした。彼女は三重県出身のドイツ語学科生で、同級生でしたが浪人を経験しており、1年ひとり暮らしが早かった分、私のことをいろいろと心配して声をかけてくれました。彼女の部屋で食べた彼女の帰省後に必ず作ってくれる伊勢うどんの味がまだ忘れられません。
こうして、ホームシックに罹り、サークルの新歓コンパのノリにどうしてもついていけない私は、なんのサークルにも所属しないという、一匹狼の道を選んだのです。もう、授業とアルバイトのみの生活。飲み会もない、サークル合宿もない、ただただ学校とアパート、学習塾の往復。それを淡々とこなしていました。肝心のフランス語も、やたら動詞の活用や発音記号ばかりの教科書に早々にギブアップ感を覚え、「あ~なんで英語学科にしなかったんだろう・・・」と後悔の日々。4年後にフランス語が話せるようになっているイメージもなく、1年生の頃の成績は中の下あたり。唯一学校で楽しかったことはオーディオルームで、フランス映画のビデオを観ること。フランスの新旧の映画を思う存分鑑賞できました。そして、松原団地は東武伊勢崎線。ぐいぐい南下すると日比谷線に直通しており、休日は六本木の「シネヴィヴァン」(閉館)や日比谷の「シャンテシネ」(現TOHOシネマズ・シャンテ)に行き、フランス映画の新作を見に行きました。そういうことに付き合ってくれる友人もいなかったのでひとりきりで。日比谷に行った時にはプランタン銀座の地下にある「ビゴの店」でバゲットを買い、隣にあったチーズ売り場で今までプロセスチーズかクリームチーズしか食べたことのなかった私は、フランスのいろいろなチーズを少しずつ買い、家で簡単なサラダを作って、おフランスな食卓を演出し、ひとりで食べては悦に入っていました(隣人は恥ずかしくて呼べなかった)。アンジェリーナのモンブランを初めて食べたときの感動もまだ覚えています。イエナ書店(閉店)で自分でも読めそうな子供むけのフランス語書籍を買ったりするのも喜びでした。フランスの本は、匂いが日本の本とは違うのです。当時はくんくんそれを嗅いでは遠いフランスに思いを馳せていました。
松原団地から都心は遠かったけれど、千葉にいた頃から比べればとても近い。何しろ乗り換えなしで六本木です。当時は夢のようでした。ある教授が「獨協大学は教授陣やカリキュラムどれをとっても素晴らしい大学だけど唯一立地条件が悪すぎる。もし都市部にあったら、君たちなんか入学できないよ」とおっしゃっていました。でも私にとってはそこは夢の「都会」だったのでした。 続きます。
そんな獨協大学に1996年に入学しました。もう20年も前のことなのですね。
当時私の在籍したフランス語学科は、フランス語を高校までに既に習ってきた学生で構成される「既習者組」1クラスと、大学からフランス語を始める「未習者組」3クラスがありました。驚くほどに女子ばかりで、男子学生はクラスに3~4人くらいだったと思います。共学の中で育った私はまずこの女子ばかりという環境に少し恐れを抱きました。しかも周りの女子はみんな大人に見え、それぞれ入学後すぐにテニスサークルやオールラウンドサークル(当時流行っていた)などに入り、キャンパスライフを謳歌していました。
私と言えば、入学早々決まった学習塾の英語講師のアルバイト開始2日めにして、帰りのバス停で痴漢に遭遇し、すぐに交番に駆け込んで無事だったのですが、その事件がトラウマになり、あんなに大嫌いだった実家に帰りたくなるというまさかのホームシックに陥りました。とにかく1人で暮らすことが怖くなってしまいました。そんな私を救ってくれたのは、当時住んでいた、大学のすぐ裏の獨協大生専用のアパートで隣室だった同級生でした。彼女は三重県出身のドイツ語学科生で、同級生でしたが浪人を経験しており、1年ひとり暮らしが早かった分、私のことをいろいろと心配して声をかけてくれました。彼女の部屋で食べた彼女の帰省後に必ず作ってくれる伊勢うどんの味がまだ忘れられません。
こうして、ホームシックに罹り、サークルの新歓コンパのノリにどうしてもついていけない私は、なんのサークルにも所属しないという、一匹狼の道を選んだのです。もう、授業とアルバイトのみの生活。飲み会もない、サークル合宿もない、ただただ学校とアパート、学習塾の往復。それを淡々とこなしていました。肝心のフランス語も、やたら動詞の活用や発音記号ばかりの教科書に早々にギブアップ感を覚え、「あ~なんで英語学科にしなかったんだろう・・・」と後悔の日々。4年後にフランス語が話せるようになっているイメージもなく、1年生の頃の成績は中の下あたり。唯一学校で楽しかったことはオーディオルームで、フランス映画のビデオを観ること。フランスの新旧の映画を思う存分鑑賞できました。そして、松原団地は東武伊勢崎線。ぐいぐい南下すると日比谷線に直通しており、休日は六本木の「シネヴィヴァン」(閉館)や日比谷の「シャンテシネ」(現TOHOシネマズ・シャンテ)に行き、フランス映画の新作を見に行きました。そういうことに付き合ってくれる友人もいなかったのでひとりきりで。日比谷に行った時にはプランタン銀座の地下にある「ビゴの店」でバゲットを買い、隣にあったチーズ売り場で今までプロセスチーズかクリームチーズしか食べたことのなかった私は、フランスのいろいろなチーズを少しずつ買い、家で簡単なサラダを作って、おフランスな食卓を演出し、ひとりで食べては悦に入っていました(隣人は恥ずかしくて呼べなかった)。アンジェリーナのモンブランを初めて食べたときの感動もまだ覚えています。イエナ書店(閉店)で自分でも読めそうな子供むけのフランス語書籍を買ったりするのも喜びでした。フランスの本は、匂いが日本の本とは違うのです。当時はくんくんそれを嗅いでは遠いフランスに思いを馳せていました。
松原団地から都心は遠かったけれど、千葉にいた頃から比べればとても近い。何しろ乗り換えなしで六本木です。当時は夢のようでした。ある教授が「獨協大学は教授陣やカリキュラムどれをとっても素晴らしい大学だけど唯一立地条件が悪すぎる。もし都市部にあったら、君たちなんか入学できないよ」とおっしゃっていました。でも私にとってはそこは夢の「都会」だったのでした。 続きます。
どうしてフランスだったのか?
人にはそれぞれ、理由はないけれどとにかく『これが好き』『やめられない』『なぜか気になる』といったジャンルがあると思うのです。それがフランスだった人、新行内です。
「フランス語の翻訳をしている」とか「高校生の頃の理想の男性はジャン・ピエール・レオーだった」などと話すことがあると、みんな「えっ?似合わないね」というような表情を浮かべます。正確に言うとそういった表情を出さないように努力している表情をです。確かに、私はいわゆるおフランス好きには全く見えません。世間で言われる所謂「おフランスかぶれ」のイメージとして、お洒落であったりインテリであったり、流行に敏感だったりというのがあると思うのですが、そのどれもが私には当てはまりません。そんな私が、なぜフランスをジャンルとして(笑)選んだのか。考えてみました。
私とフランスとの出会いは、高校時代のことでした。当時、田舎の女子高生だった私は帰宅部。放課後は再放送の「大岡越前」を祖父と観るために、1時間に1本しかない電車に乗るために命を懸ける毎日を送っていました。彼氏もいない、打ち込むスポーツもない、ましてや勉強も好きじゃないという暗黒時代、唯一の楽しみは毎月3日と18日に発売のオリーブを読むことでした。当時のオリーブはファッションだけでなく、ライフスタイルや映画や音楽などのカルチャーを東京との時差なく運んでくれる雑誌でした。その頃の私にとってはまさにバイブル的な存在です。聴くもの観るもの読むもの、すべてにおいて影響を受けていたと思います。
そんな中でも一番心をつかまれたのが当時「渋谷系」と呼ばれたミュージシャンたち。ピチカート・ファイブ、フリッパーズギターやカヒミ・カリィ、など当時のポップカルチャーを牽引していた方たちが影響を受けていたもの、そして私たち世代に紹介していたもの、それがフランスでした。こどもだった私にどこまで理解できていたかはわかりませんが、トリュフォーやゴダールの映画を観、ピエール・バルーやセルジュ・ゲンズブール、フランソワーズ・アルディの曲を聴く。サガンやカミュの本を読む。テキストを買ってきてフランス語を独習し始めたのもこの頃です。
フランス崇拝主義は若さのアクセルもあって、どんどん加速していきました。そして高校3年夏、私はフランス語学科のある大学に進学することを決めたのでした。もう、将来何になりたいとか、そういうレベルでの話ではありません(小学生の頃は英語の通訳か翻訳家になりたいと思っていましたが)。4年間、フランスにどっぷりかぶれるためだけの進路選択でした。幸い、子供たちの進路に無関心な両親から反対されることもなく、私はフランス語学科の学生になったのでした。そしてその学生時代にはさまざまな人たちとの出会いがありました。 続きます。
「フランス語の翻訳をしている」とか「高校生の頃の理想の男性はジャン・ピエール・レオーだった」などと話すことがあると、みんな「えっ?似合わないね」というような表情を浮かべます。正確に言うとそういった表情を出さないように努力している表情をです。確かに、私はいわゆるおフランス好きには全く見えません。世間で言われる所謂「おフランスかぶれ」のイメージとして、お洒落であったりインテリであったり、流行に敏感だったりというのがあると思うのですが、そのどれもが私には当てはまりません。そんな私が、なぜフランスをジャンルとして(笑)選んだのか。考えてみました。
私とフランスとの出会いは、高校時代のことでした。当時、田舎の女子高生だった私は帰宅部。放課後は再放送の「大岡越前」を祖父と観るために、1時間に1本しかない電車に乗るために命を懸ける毎日を送っていました。彼氏もいない、打ち込むスポーツもない、ましてや勉強も好きじゃないという暗黒時代、唯一の楽しみは毎月3日と18日に発売のオリーブを読むことでした。当時のオリーブはファッションだけでなく、ライフスタイルや映画や音楽などのカルチャーを東京との時差なく運んでくれる雑誌でした。その頃の私にとってはまさにバイブル的な存在です。聴くもの観るもの読むもの、すべてにおいて影響を受けていたと思います。
そんな中でも一番心をつかまれたのが当時「渋谷系」と呼ばれたミュージシャンたち。ピチカート・ファイブ、フリッパーズギターやカヒミ・カリィ、など当時のポップカルチャーを牽引していた方たちが影響を受けていたもの、そして私たち世代に紹介していたもの、それがフランスでした。こどもだった私にどこまで理解できていたかはわかりませんが、トリュフォーやゴダールの映画を観、ピエール・バルーやセルジュ・ゲンズブール、フランソワーズ・アルディの曲を聴く。サガンやカミュの本を読む。テキストを買ってきてフランス語を独習し始めたのもこの頃です。
フランス崇拝主義は若さのアクセルもあって、どんどん加速していきました。そして高校3年夏、私はフランス語学科のある大学に進学することを決めたのでした。もう、将来何になりたいとか、そういうレベルでの話ではありません(小学生の頃は英語の通訳か翻訳家になりたいと思っていましたが)。4年間、フランスにどっぷりかぶれるためだけの進路選択でした。幸い、子供たちの進路に無関心な両親から反対されることもなく、私はフランス語学科の学生になったのでした。そしてその学生時代にはさまざまな人たちとの出会いがありました。 続きます。
2016年6月28日火曜日
BD(ベデ)をご存知ですか?
じめじめしたお天気続きですね。でも梅雨が明けたらいよいよ 夏。暑さに弱い私には厳しい季節です。でも夏が好きっていう人多いですよね、そして皆さんマリンスポーツやレジャーへととてもアクティブなこと。そんな人たちに憧れと尊敬の念がやまない新行内です。
さて、タイトルにも書きましたが、みなさんはBD(ベデ)という言葉を聞いたことがありますか?正式にはBande dessinée(バンド・デシネ 絵が描かれた帯の意)といいまして、これ、日本で言うところの漫画なんです。主にフランス語圏の漫画がこう呼ばれます。今や日本の漫画はMangaと表記され、世界中で読まれていますが、BDは、まだ日本での認知は低いと言わざるをえません。その中でも比較的知られているのは「タンタンの冒険」シリーズや青い妖精「スマーフ」シリーズなどでしょうか。どちらもとても古いですが最近も映画化されるなど人気があります。
私もこのBDが大好きでして、フランスに行くときには大量に購入してきたり、日本で翻訳が出ているものを読んだりなど楽しんでいます。(ここ何年か、邦訳版の出版も増えてきました!)
その中でも、私が注目しているのは女性作家ものです。日本には少女漫画というジャンルがあり、有名な女性作家も多いですが、ヨーロッパのBDは少女漫画というジャンルは確立されておらず、どちらかというと子供向け、ティーンズ向け、SF、サスペンス、ドキュメンタリーといった作風によるジャンル分けになっていると思います。
現在は更新がストップされているのですが、BDやアメコミなどの海外コミックを出版しているShoProBooksさんがBDファンに向けて開設しているサイト『BDfile ベデフィル』に2人の女性作家を紹介する記事を書かせていただきました。
Nine ANTICO(ニーヌ・アンティコ) http://books.shopro.co.jp/bdfile/2013/02/nine-antico.html
Anouk RICARD (アヌーク・リカール)http://books.shopro.co.jp/bdfile/2013/12/post-52.html
両人ともまだ、日本では紹介されていませんが、欧米では翻訳版も出ています。日本でも彼女たちの作風を気に入ってくれる方は多いのではないかと思っています。ただ知られていないだけ、翻訳が出ていないだけ、そんな気がします。また、日本の漫画と違い、基本的にオールカラーで本のサイズも大きいので、眺めているだけでも楽しく、アートブックとしての価値も高いと思います。
BDの翻訳をしてみたい、それが私の夢のひとつです。
さて、タイトルにも書きましたが、みなさんはBD(ベデ)という言葉を聞いたことがありますか?正式にはBande dessinée(バンド・デシネ 絵が描かれた帯の意)といいまして、これ、日本で言うところの漫画なんです。主にフランス語圏の漫画がこう呼ばれます。今や日本の漫画はMangaと表記され、世界中で読まれていますが、BDは、まだ日本での認知は低いと言わざるをえません。その中でも比較的知られているのは「タンタンの冒険」シリーズや青い妖精「スマーフ」シリーズなどでしょうか。どちらもとても古いですが最近も映画化されるなど人気があります。
私もこのBDが大好きでして、フランスに行くときには大量に購入してきたり、日本で翻訳が出ているものを読んだりなど楽しんでいます。(ここ何年か、邦訳版の出版も増えてきました!)
その中でも、私が注目しているのは女性作家ものです。日本には少女漫画というジャンルがあり、有名な女性作家も多いですが、ヨーロッパのBDは少女漫画というジャンルは確立されておらず、どちらかというと子供向け、ティーンズ向け、SF、サスペンス、ドキュメンタリーといった作風によるジャンル分けになっていると思います。
現在は更新がストップされているのですが、BDやアメコミなどの海外コミックを出版しているShoProBooksさんがBDファンに向けて開設しているサイト『BDfile ベデフィル』に2人の女性作家を紹介する記事を書かせていただきました。
Nine ANTICO(ニーヌ・アンティコ) http://books.shopro.co.jp/bdfile/2013/02/nine-antico.html
Anouk RICARD (アヌーク・リカール)http://books.shopro.co.jp/bdfile/2013/12/post-52.html
両人ともまだ、日本では紹介されていませんが、欧米では翻訳版も出ています。日本でも彼女たちの作風を気に入ってくれる方は多いのではないかと思っています。ただ知られていないだけ、翻訳が出ていないだけ、そんな気がします。また、日本の漫画と違い、基本的にオールカラーで本のサイズも大きいので、眺めているだけでも楽しく、アートブックとしての価値も高いと思います。
BDの翻訳をしてみたい、それが私の夢のひとつです。
2016年6月22日水曜日
Tokyo 私の好きな53のアドレス
SNSでブログを始めたことをお知らせしたところ、たくさんの方に読んでいただいたようで、ありがたいと思う気持ちと、定期的に更新しなくてはという気持ちが綯交ぜになっている新行内です。
今日は2015年にフランスの出版社Editions Cambourakisから発売された『Tokyo私の好きな53のアドレス』 (Tokyo Guide subjectif en 53 adresses)をご紹介したいと思います。
表紙もとても美しいこのガイドブック、私の手元にはないのですが、パリ版と2冊同時に発売されました。パリ版はこちら。http://www.cambourakis.com/spip.php?article582
吉祥寺や下北沢など、東京の街を8つのエリアに分け、それぞれのエリアでイザベル自身の足で、目で見つけた53のアドレスを紹介しています。
黒の線画でお店の外観が描かれており、イザベルのおすすめポイントやショップインフォメーションが2か国語で表記されています。
イザベルのひとつひとつのコメントがそのお店への愛にあふれていて、本当に彼女が友人や家族に勧めたいとっておきのアドレスなのだな~と感じます。
またお店のセレクションがすごい!!実際に行ってみると、独自のカラーのある、でも入りやすくてまた来たくなるようなコージーなお店ばかりなのです。私もこのガイドで知ってからリピートしているお店が何軒もあります。
日本で出版されているガイドブックの中には、なんとなくカタログのような、広告誌を読んでいるような気分になるものもありますが、まさにその対極にあるガイドブックなのではないかと思います。すごく個人的というのでしょうか・・・。友人に「東京に行くんだったらあのお店が雰囲気よいよ。あとお土産はここがけっこうすてきかも。」みたいなノリで教える、イザベルだけの私的な東京、そんなムードの1冊です。
実際、掲載されたお店の方にお会いすると、このガイドブック片手に訪れてくるフランス人もいらっしゃるとか。また、このガイドブックを持って東京を巡り、とても楽しかったとのメッセージをいただいたこともあります。
日本でも販売していましたが、今は売り切れや在庫僅少のところが多いようです。フランス旅行に行ったらこの東京ガイドをお土産にするのもよいかもしれません。
また、CREA 3月号の東京特集にも、イザベルの選ぶ東京のお店を紹介する記事「東京のすみっこめぐり」が掲載されています。こちらにはうちの次男がちっちゃく登場してたりして。 http://crea.bunshun.jp/articles/-/9694
近い将来に、イザベルと東京のガイドブックを日本で出版したいと思っています。企画に興味がある方はぜひご連絡くださいませ~。
2016年6月20日月曜日
わたしのおやつレシピ
前回ご紹介したイザベル・ボワノのレシピブック
写真のように、現在フランスでは4種類のレシピブックが出版されています。
Mes recettes pour le goûter わたしのおやつレシピ
Mes recettes à emporter わたしのおでかけレシピ
Mes recettes de fêtes わたしのパーティーレシピ
Les recettes de mes amis japonais わたしの日本の友だちレシピ
日本ではMes recettes pour le goûterの翻訳版「わたしのおやつレシピ」が小学館より2015年10月に出版されています。
この本の翻訳と手書き文字を私が担当しています。イザベルのレシピ、すべての調理工程が手描きのデッサンと文字で表現されています。
ページを繰りながら眺めるだけでも、ゆったりと優しい気持ちになれる一冊。そして紹介するすべてのお菓子が簡単に気軽に作れるものです。さくらんぼのクラフティやりんごとくるみのクランブル、チョコレートムースやあずきゼリーなど、26種類のおやつとそれを可愛くラッピングするアイディアをご紹介。自分用には勿論、プレゼントするにも最適なレシピブックになっています。
日本版の帯は菊池亜希子さんが推薦文を書いてくださっています。(菊池亜希子さんとはマッシュVol.8で一緒に東京散歩をさせていただいています。こちらもどうぞご覧ください!)
私とイザベルの夢は、このレシピブック全冊の日本語版を出版すること!それに向けて頑張っていきたいです。
2016年6月9日木曜日
イザベル・ボワノ(Isabelle BOINOT)について
今日は、私が日本での活動をお手伝いしているフランス人アーティスト、イザベル・ボワノについて書きます。
1976年フランス西部の町ニオール生まれ、パリ在住のアーティスト。
アングレームの美術大学を卒業後、イラスト、出版を中心に活動を開始。
デッサンやコラージュ、刺繍、映像など多岐にわたる表現で、フランスはもとより、海外でも作品を発表し、個展を開催している。
また、日本では自身の個展を定期的に開催するほか、書籍の出版や雑誌等へのイラストの提供、イベントのアートディレクションやキュレーションなど幅広い分野で活躍している。
というのが彼女のプロフィールです。
最近は特に日本での活躍の場を広げているイザベル。彼女の作品を雑誌や書籍でご覧になったことがある方も多いのではないかと思います。
イザベルは大の親日家で、年に2回は来日しています。そして活動の合間に東京の街を探検し、素敵な場所や人たちに出会っています。特に東京の街や素敵なお店やレストランを見つける嗅覚は天才的で、昨年は東京のガイドブックを出版するほど。そのお店のセレクションはまさに日本の文化系女子のツボにがっちりはまるものです。私たちと同じ感性を持っているというか、「いいな」と思うものがとても近いのです。「東京 私のすきな53のアドレス」(Cambouraki社刊)http://www.cambourakis.com/spip.php?article583
また、もちろん彼女は非常にフランス人的な部分も持っていて、彼女のパリでの暮らしや両親と過ごすフランスの田舎での暮らしぶりは、元オリーブ少女にとってはまさに憧れの世界観です。パリの小さなアパルトマンでおやつに焼くビスケットや、田舎の家の庭でとれたフランボワーズで作るジャムなどのレシピをすべて手描きしたレシピブック、「わたしのおやつレシピ」(小学館刊)をご覧いただければ、きっと彼女のファンになるはずです。
http://www.shogakukan.co.jp/books/09310838
続きます。
というのが彼女のプロフィールです。
最近は特に日本での活躍の場を広げているイザベル。彼女の作品を雑誌や書籍でご覧になったことがある方も多いのではないかと思います。
イザベルは大の親日家で、年に2回は来日しています。そして活動の合間に東京の街を探検し、素敵な場所や人たちに出会っています。特に東京の街や素敵なお店やレストランを見つける嗅覚は天才的で、昨年は東京のガイドブックを出版するほど。そのお店のセレクションはまさに日本の文化系女子のツボにがっちりはまるものです。私たちと同じ感性を持っているというか、「いいな」と思うものがとても近いのです。「東京 私のすきな53のアドレス」(Cambouraki社刊)http://www.cambourakis.com/spip.php?article583
また、もちろん彼女は非常にフランス人的な部分も持っていて、彼女のパリでの暮らしや両親と過ごすフランスの田舎での暮らしぶりは、元オリーブ少女にとってはまさに憧れの世界観です。パリの小さなアパルトマンでおやつに焼くビスケットや、田舎の家の庭でとれたフランボワーズで作るジャムなどのレシピをすべて手描きしたレシピブック、「わたしのおやつレシピ」(小学館刊)をご覧いただければ、きっと彼女のファンになるはずです。
http://www.shogakukan.co.jp/books/09310838
続きます。
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